nodakazuo.com 野田一夫 WebSite
プロフィール
関連リンク
はがき通信ラポール インターネット版

2007年6月27日

658 万歳、80歳だ!

 決して強がりではありません。この年齢に達することは、僕の長年の願望でした。幼い頃から尊敬していた父の60歳〜80歳までの生き様を、いつも憧れて生きたからです。

  優しい父からはよく「愚痴を言うんじゃない!」と厳しく諭されました。が、父が愚痴を言った記憶は全くありません。一生を賭けた航空技術者としての職を突然奪われてしまった敗戦後のあの時ですら…。失業した父を気遣った家族の思いに反し、家にいる父は悠々と読書に耽ったりして、まるで休日を過ごすように以前と全く変わらなかったものです。

  やがて父は、毎朝母に弁当をつくらせて出かけるようになりました。「私からは聞きにくい…」と母に言われて僕が、「お父さん、どこへ…」と問うた時、父はさりげなく答えました。「図書館さ。お父さんは、昔から科学技術の歴史を調べたいと思っていたが、暇がなくてね…。だが、やっと時間ができたから勉強し始めたが、実に面白いもんだぞ」と。

  いつしか父が毎朝出かけるのを家族が何とも思わなくなった頃、父の書斎には難しそうな専門書が増え、机の上のメモや原稿の量が、僕に威圧感すら与えたのを忘れません。父の研鑽の成果は、20年後『科学世界史』上・下巻(丸善刊)として結実したのです。届けられた新刊の自著をひもとく父の静かな横顔には、子供心にも知性の漂いを感じました。

  21日夕パレスホテルで大勢の友人知人たちがハチャメチャに愉快な誕生日のイヴ・パーティーを、翌22日夜ホテルオークラで妻と子供や孫たち11人が集まって和やかな誕生会を開いてくれました。親しい人々のいるこの世を旅立つ哀しみと、懐かしい父母の待つあの世へ行く楽しみとが、心の底にそこはかとなく何時も混然と潜む歳になった僕です。

このページのトップへ

2007年6月20日

657 講演を分析する

 相変わらず毎週いろいろ講演をしていますが、嬉しいことに最近は僕自身の主観的見解を思う存分披瀝できる講演がぐっと増えました。例えば先週木曜夕の講演。赤坂東宮御所を一望する会場に集まった意欲満々の産業人たちのAGORAサロンで依頼された演題は「成功について」。ホリエモンの後始末で悪戦苦闘中の平松ライブドア社長まで駆けつけ真向かいに座られたので、早速これ幸いと合いの手をお願いした次第。

  この種演題では事前の準備など全く無意味で、立った瞬間の会場内の雰囲気で頭に浮かんだことから喋りだし、やがていい反応を掴むと、後は面白いように話題がつづきます。当日はまず「皆さん、成功の逆は何でしょう?」という質問から始めました。そしてつづけて「…多分大部分の方が“失敗”とおっしゃるのを躊躇されておられるようですが、僕は“何も目指さないこと”と答えます。いかがでしょうか…」と。

  「目指さなければ成功も失敗もないわけですが、目標のない人生ほど悲しく、味気ないものはありません。…人生目標を最も美しく表現した日本語、それは“志”です。志とは遠大な目標であるとともに、それが達成された時本人はもとより周囲の人々をも感動させるような次元の高い目標に対し使われます…」といった調子で、話は徐々に熱を帯び始めます。

  講演は一つの芸、いや作品。一回限りのものですから、出来不出来は避けられませんが、出来不出来を大きく左右する原因は話す側にだけあるのではなく、会場の設営、運営の仕方、聴衆の反応…など様々です。ことに大きいのは聴衆の反応で、それいかんで話す側の“のり”は決定的に左右されます。ただし、最新のプレゼン技術を多用し、講師が聴衆に背中を向けっぱなしの講演、これは講演の名に全く値しません。

このページのトップへ

2007年6月13日

656 真の国際派とは…

 先週から今週にかけては、経済誌「BOSS」7月号のため椎名武雄君との対談(テーマ「プロ経営者論」)につづき、朝日新聞の名物欄「be」に近く登場予定の佐倉住嘉君に関する取材の応対と、“国際派ビジネスマン”と妙に縁のある一週間でした。“国際派ビジネスマン”と言うと、昨今はすぐ米国の一流BスクールのMBA取得者を連想する日本人が多いでしょうが、両君はともにMBAともBスクールとも無縁です。

  両君が“国際派ビジネスマン”として定評があるのは、学歴なんかではなく、卓越したビジネスの実績の故です。その実績をもたらした共通の属性として僕は、豊富な経営的知識とか優れた語学力といったものより、やはり@惚れ惚れするほど明るい人間的魅力、A独自の発想と不抜の信念、B組織の全員を自然にその気にさせてしまう説得力を挙げます。これらこそ正に国を超えて効果を実証する重要な才能のはず。

  椎名君は日本IBM社長(現相談役)の頃に口癖だった「Sell Japan in US and sell US in Japan !」を見事に成功させてIBM社内での日本の評価を格段に高めつつ日本の“情報化”に大きく貢献したばかりか、外資系企業出身の財界人としては空前の活躍をし、また名声を博する存在となったのです。

  一方、世界に冠たるスピーカーを開発普及させたボーズ博士(MIT教授)が一目でほれ込み日本市場の責任者を要請した異色経営者こそ、佐倉君。この期待に応え同君は、単なる輸入業者に納まらず、斬新な発想の世界的改良商品を次々に成功させて、同社の日本での市場地位を確固ならしめました。

  要するに“国際派ビジネスマン”とは、国外から見た燦然たる経営実績(を背景に、両君とも米国本社の取締役に迎えられた)を残した人物に敬意を込めて使われるべきでしょう。

このページのトップへ

2007年6月4日

655 死人にたかる卑劣な輩

 「…自分の身命を持って責任とお詫びに代えさせていただきます。なにとぞお許しくださいませ。…」。自殺した松岡前農水相が国民ならびに後援会に当てた遺書の一部で、率直に言って、死の直前に前非を悔いた一種の潔さが伺えます。

  だが、総理や仲間や地元後援者の弔い方は異常過ぎました。まるで赫々たる功績を残した大政治家が不慮の死にあったかのごとき大げさな悔やみよう…。生前松岡氏は(関係業界への利益誘導実績は別としても)自民党や安倍内閣によほど大きな貢献をした政治家だったのでしょうか。

  死者を鞭打つ気はありませんから、松岡氏が生前の自分の所業を死で償ったことを僕はそれなりに評価し、心から冥福を祈るのみです。が、その死で同氏を追い詰めていた疑惑の全てが闇の中に葬られんとするなら、それは氏のせいではなく、氏の死を利用しようとする輩の卑劣極まる仕業です。

  地元での氏の盛大な葬儀が伝えられたことへ反動か、マスコミではやっと、政治家としての松岡氏に対する厳しい批判とか、(氏を自殺へ追い込んだと推測される)緑資源機構疑惑への徹底解明の主張とかが少しく現れてきました。

  80歳も近づくと、僕にとっては“死”は(若い頃と違って)遠からずやってくるごく身近な現実。今年同年の友人城山三郎、植木等、北村和夫三君に相次いで先立たれた僕の心境は率直なところ、悲しさとか淋しさより、「あの世で待つ友人が増えた」とでも表現すべき淡々たる気分でした。

  松岡氏の死に関し僕が珍しく二回つづけて所感を述べたのも、上記の心境に立脚したもの。あの世に行ってまで松岡氏を責める気もない僕ですが、彼の死にたかろうとする卑劣な輩は、この世で天誅が下るのを是非見届けたいものです。

このページのトップへ

2007年5月29日

654 任命責任より擁護責任

 (Rapport今号用の一文を印刷所にメールする直前「松岡農水相自殺」の報に接しましたが、その瞬間僕の頭にひらめいたのが上記の標題でした。そこで、28日の夕刊か29日の朝刊がそれを取り上げなければ、どうしても以下の一文に急遽差し替えようという気になりました。結局、僕が目を通したかぎり、両日とも新聞紙上では、誰も「安部総理の擁護責任」を問おうとしませんでした。僕には全く納得がいきません。)

  自民党議員の圧倒的支持を受けて安倍内閣が成立した時、心ある国民の全てはその閣僚の顔ぶれを見て首をかしげ、失望したはずです。大臣としてはどうかと思われる人物が何人も顔を連ねていたからです。松岡氏こそその代表的人物。

  氏は90年初当選以来、呆れるほど何回も各種の汚職疑惑の対象となったことは衆知の事実。その彼をこともあろうに農水相に登用したのみならず、閣僚就任後も次々と起こった汚職がらみの事件の度に、安倍総理は氏を一貫して擁護しつづけ、しかも、納得のいく説明がなされたことがありません。

  松岡氏自殺の真因は知る由もないとはいえ、目下国民注目の緑資源機構(農水省所管)の官製談合事件とのかかわりで窮地に追い詰められたという推測は極めて自然です。総理の“任命責任”はもちろん問われるべきですが、氏をかばいつづけた総理の擁護責任はもっと重いはず。不可解な総理の過剰擁護は、皮肉にも松岡氏を自殺にまで追い込みましたが、やましいからこそ氏は自殺したわけで、疑惑を水に流して終らせるという日本流の幕引きがないことを心から祈ります。

  官僚の抵抗を排除して、目下“天下り”禁止を目玉とする公務員制度改革が官邸主導で進められていますが、政治家の腐敗に対し総理はなぜかくも寛容でおれるのでしょうか…。

このページのトップへ

2007年5月23日

653 本当に大丈夫なのだろうか

 珍しく講演もなく原稿にも煩わされなかったのに、結構何かと忙しく過ぎてしまったこの一週間を振り返ると、やはり先号で標題にした『母国、この重苦しさ』の気分からどうしても抜け出せない自分を感じます。先日安倍自民党の強行路線で「国民投票法」が成立した時、僕は1940年秋の「大政翼賛会」の創立の頃を想起しました。マスコミの扇動もあり、これを機に世論は一気に対米英強硬論に傾き、政治態勢は着々と決戦への道を急ぎはじめたことが忘れられません。

  17日木曜。Rapport-649でご紹介した『永遠の0』の著者百田氏を囲み、親しい友人たちと昼食歓談。主題はもちろん零戦でしたが、話が何時しか前大戦の戦争責任論に移ると、出席者の間で意見が分かれて侃侃諤諤。宮部久蔵を描いた百田氏が日本軍の暴虐には懐疑的だったこと、実に意外でした。

  19日土曜午後、ワイフと紀尾井ホールへ(フィンランド生まれのヨーン・ストルゴード指揮のコンサート)。はじめて聴いたシベリウスの交響曲第3番になじめず、演奏中『フィンランディア』を思い出し、「…歴史上真の意味で他民族・国家の支配下で屈辱的苦しみを体験したことのない日本人には、中国人や韓国(朝鮮)人の心の底にある反日感情はとうてい理解できないだろう…」などといったことを考えていました。

  21日月曜夕。東京プリンスホテルでの「城山三郎 お別れの会」。僕と同年ながら、彼は17歳で特別海軍練習生を志願したほどの愛国少年。入隊してみて日本軍の堕落ぶりと上官による蛮行に近い“訓練”に接したのですが、この体験こそ、作家としての同君の深層心理だったはず。個人情報保護法やイラクへの自衛隊派遣に執拗に反対しつづけた彼は、自国に迫る暗い未来を、誰よりも敏感に予感したのでしょうか…。

このページのトップへ

2007年5月15日

652 母国、この重苦しさ

 ジュディ・オングさん主演のハリウッド映画『アメリカンパスタイム─俺たちの星条旗』のロードショウにお招きを受けたので、映画好きの友人に声をかけ、この土曜十人ほどでジュディを囲んで昼食歓談をした後、ロードショウを鑑賞しました。「(予想していたより遥かに)よかった。何回も泣かされた」というのが、僕を含め全員の偽らざる思いでした。

  太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃が“奇襲”と受け取られた途端に一挙に全米に広まった反日感情を背景に、日系アメリカ人約一万人は不当にも自由を奪われ、長く屈辱的な収容所生活を強いられたことは衆知の事実です。この映画は、こうした不幸な環境の中で、彼らがいかに忍耐強く、かつ努めて前向きに生きたかを、(アメリカの国技)野球にからむエピソードを中心に実に自然に観客に訴えかけてくれます。

  観客として、僕はまた別な感慨にふけっていました。「人間誰しも選んである国に生まれたわけではないのに、成長すると、一国民として何かと不当な法的・慣習的制約を意識させられる。“社会的動物”である以上そのこと自体は致し方ないとして、かりにある人間が自分の生まれ育った国の制約に納得できずに他国に移住し、国籍までとっても、当人の生まれ(外見等)と育ち(言語等)はともかく、母国の所行までを、良かれ悪しかれ終生の荷物として背負うことになる…」と。

  この観点からこの映画を観ると、日本人として生まれた限り、“自由の国”と言われるアメリカに移住しても、心安らかな人生は期待できそうもありません。かといって、「今度生まれるとしたら…」という問に、「日本!」と即答できないこと、80年生きた僕にとって、これこそが“根源的悲哀”です。

このページのトップへ

2007年5月8日

651 己の浅見を恥じる

 もうイタリアには十数回も旅して、友人知人にはちょっとした“イタリア通”ぶったりもしてきた僕ですが、今度の旅で己の無知を思い知らされました。何とこれまで僕は、南イタリアは(北に対し)後進地域という固定観念から、南端のシチリアなど所詮は僻遠の島と思い込み、先年パレルモを訪れた際も、ろくな勉強もせず定番の観光地めぐりをしただけで、「シチリアにも行った」と得意になっていたものです。

  今度は違いました。イタリアの専門家として令名高い小森谷慶子さんの8人のお弟子さんのための“研修旅行”にお供したかたちでしたから、12日間をかけて主要な博物館や美術館、都市や建造物、遺跡や史蹟…を訪ね、それぞれの場所で啓蒙的解説を受けつづけたのです。結果として、シチリアはヴェネツィアやフィレンツェはもとよりローマやミラノよりも地域として古い歴史を持ち、イタリアのどの地域も比肩しえない文化的厚みを持っていることを痛感させられました。

  シチリアは世界一気候温暖な地中海の中心に位置し、しかも海の幸・陸の幸にふんだんに恵まれていたが故に、太古から多くの人種・民族を惹きつけ、高度で多彩な文化を育むとともに、その支配権をめぐる争いの場ともなってきました。紀元前千数百年前にすでにかなり精巧な陶器や青銅器・鉄器の文化を築いた先住民以来、第二次大戦後誕生したイタリア共和国の特別自治州になるまでの三千数百年の波乱万丈の歴史を瞥見するだけで、「シチリアはヨーロッパの縮図」という表現は実に適切と納得せざるをえません。イタリアの魅力はより強まりましたが、今後僕は己の無知に心を戒め、イタリアをより正しく知る努力をつづけるつもりです。(なお、先号でシチリアを「四国より一回り小さい」としたのは“大きい”の誤りです)

このページのトップへ

2007年4月23日

650 いざ、シチリアの旅へ

 このところ毎春イタリアの田舎を旅していますが、「今年は小森谷(慶子)先生と一緒にシチリア…」とワイフから言われた時は、実は気が進みませんでした。すでにパレルモには行っていますし、だいいち、地中海最大とはいえ、四国より一回り小さい島を10日以上もかけて旅するなんてもったいないと思ったのです。が、ワイフから渡された数冊の本を読んで己を恥じ、出発の日を逆に心待ちするようになりました。

  その一冊はゲーテの『イタリア紀行』(相良守峯訳)。若くして名を成した詩人ゲーテが中年期の知的沈滞から脱却せんものと矢も楯もたまらず、誰にも行く先を告げず商人の名を騙ってワイマールから馬車で向ったのは、アルプスの彼方“太陽の国”イタリアでした。実に20ヶ月に及ぶこの旅での精神的再生こそ、後半生のゲーテのあの素晴らしい創作活動の原動力になったというのが、専門家の間で定説となっています。

  この本を読むと、ゲーテが目指した究極のイタリアはシチリアではなかったのかという気になります。たしかに43日の滞在は、再度滞在したローマ(1年2ヶ月余)はもちろんナポリ(51日)にも及びませんが、ゲーテは旅人としてどの土地よりもその気候、風景だけでなく、四千年の歴史がつくった建造物や街並み、料理や庶民生活…に興味を惹かれ、「シチリアにこそイタリアを解く鍵がある」とまで絶賛しています。

  映画ファンには、古くはヴィスコンティ監督の『山猫』、比較的最近ならコッポラ監督の『ゴッドファーザー』の舞台として親しいシチリア。220年前ゲーテも僕と全く同じ時期にこの地を旅していたのは何かの因縁と思い、『イタリア紀行』も携帯して折にふれ目を通すつもりでいます。

このページのトップへ

2007年4月17日

649 小説『永遠の0』が教えるもの

 「この本を読んで、おじいちゃんのこと思い出し、泣いたよ…」と三男の豊から先日手渡されたのは、百田尚樹著『永遠の0』(太田出版)。僕の父はかつて三菱重工で“零式戦闘機=零戦”の開発責任者でしたから、懐かしさに駆られてすぐ読み始めましたが、この小説のミステリー顔負けのスリル溢れる展開に魅了され、一気に読了してしまった次第です。

  主人公は零戦の古参パイロット宮部久蔵。彼は「何としても妻子の元へ」というおよそ軍人らしからぬ日常の言動の故に、同僚から批判の的となる一方、人間離れした天才的操縦技術の故に、多くの部下からは尊敬の的となる個性的人物。是非にと一読をお勧めしたいので、内容には一切触れませんが、僕は本書が類い稀な“経営書”だと信じて疑いません。

  読みつつ心に蘇ったのは、数々の父の言葉。例えば「…量産技術と開発スピードで勝負にならんから、やがてひどい目に会う」(真珠湾攻撃の成功を告げるニュースを聞いた朝)、「飛行機より操縦者の方が遥かに大切なのに…」(操縦者次第で性能が幾らでも高まる零戦、その防弾装置を海軍が取り外したことを知って)と、多くが無知な軍への静かな怒りでした。

  日露戦争を“乾坤一擲”で勝利した日本の軍隊には、以来過剰な“精神主義”が主流となり、それが結果として無謀な日中・太平洋戦争をひき起こしたという説があります。“産業戦士”などという言葉に象徴されるように、戦後この精神主義は産業界に引き継がれて、一時は「世界の奇跡」と称えられた成功を収めましたが、結局は「第二の敗戦」と自嘲せざるをえない国家的沈滞を招来させた、という説はいかがでしょう。これからの企業、いや日本にとっても、真に必要とされるのは宮部久蔵のような人物だ、と僕は信じて疑いません。

このページのトップへ

2007年4月10日

648 困るじゃないか、植木君…

 城山君につづいて同年の友人植木等君の訃報に接しました。入院していたことは全く知りませんでしたが、昨年電話で話した時、「…昔ノダチャンとゴルフ場で一緒に走ったよなぁ…」などと言った辛そうな声が、今も耳朶に残っています。

  中年期に“無責任男”として時代の寵児となった頃、同君のイメージはハチャメチャに朗らかな男として世に定着しましたが、先週来各種メディアで友人知人が一様に語っていたように、日常の植木君は、他人への気遣い抜群の、むしろ控えめな人。例えば、ゴルフで一緒に回って、僕が好打を放つと、誰よりも大声で「ナイス・ショット!」と叫び、大失敗すると、何気なく近寄って来て小声で「(ゴルフが)本業じゃないからねぇ」などと慰めてくれる、そんな人でした。

  背丈・体つき・顔かたち…といった点で僕と植木君はどこか似ていたので、むかし富士CCでプレーの合間にキャディに「…実は、僕たちは兄弟で僕が兄貴なんだが、弟は出来が悪くて養子に出されちゃったんだ…」と冗談を言うと、植木君が「困るね、そんなことここでばらしちゃ…」と同調。すると「やっぱり…。だけど、お兄さんの方がずっと植木等見たいね…」という彼女のひと言で、みんな大笑い。分かっていただけますか、この意味? ゴルフ場では僕の方がずっと大声で面白いことを言ってみんなを笑わせていたのです。

  天与の美声に加えて実家がお寺だったため、同君の読経はプロの坊さん顔負け。したがって、われわれの「昭和二年の会」の会員の間では、死んだ時は植木君が経を読み、ノダチャンが弔辞を語るということになっていました。なのに、困るじゃないか植木君、先に勝手にあの世に行くなんて…。

このページのトップへ

2007年3月28日

647 海の都の物語

 塩野七生さんが来日中です。昨年末『ローマ人の物語』全15巻を完成されたのも立派ですが、16年前「年一冊、全十五巻」と宣言して、(万人がまさかと思ったのに)それを実行した能力と努力と体力に、心から敬意を表します。先々週の日曜午後日伊協会主催の講演会が始まる前にお会いした途端、「…あら、全然昔とお変わりないじゃありませんか…」と言われ、年月の移ろいの早さを改めて痛感した次第。

  先回塩野さんにお会いしたのはローマ。未だ『ローマ人の物語』に取り組んでおられなかった昔でした。最初の出会いはフィレンツェ。彼女の出世作は81年に中央公論社から出版された『海の都の物語』ですが、その直後購読して感激した僕は、かねてから親しかった同書の編集者塙嘉彦君に紹介をお願いし、ヨーロッパ出張の帰途フィレンツェにわざわざ彼女を訪ねたのです。彼女が指定した都心のレストランで宵の8時にお会いするなり話がはずみ、飲む間も食べる間も話は途切れず、気がついたら明け方の3時を回っていました。

  彼女に再会した日の午前、『VOICE』誌に連載記事「企業家の一冊」の原稿をメールで送りました。推薦書はもちろん『海の都の物語』。大ローマ帝国崩壊後の蛮族の横行を逃れ、海とも陸ともいえない場所に続々と移り住んだ人々が7世紀末に創始した共和国は、18世紀末ナポレオンによって滅ぼされましたが、人口(最盛時で推定約20万人)と資源(当初は魚と塩のみ)の乏しさにもかかわらず、その間実に長い間黒海から東地中海に及ぶ広大な地域を経済的に支配しえた一大海洋国家でした。ヴェネツィアこそ人類史上空前のventure。その劇的な歴史を描いた『海の都の物語』より企業家の“座右の書”にふさわしい本を、僕は知りません。

このページのトップへ

2007年3月27日

646 孤高の人城山三郎君逝く

 22日夜帰宅して、城山三郎君の訃報に接しました。その昔立教大学で「経営概論」を受け持っていた頃、学生たちに「…上場会社の株主総会では、そこでうまい汁を吸うことを商売にしている輩の発言が目立つが、彼らのことなんか経営学の本には出てこない。これを読め…」と言って、城山君の出世作『総会屋錦城』の一読を勧めたものです。やがてある雑誌の対談で同君と知り合い、急速に交友が深まりました。

  戦時中率先志願兵となったほど純粋な愛国少年だった同君は、軍隊組織内の権力の横暴と腐敗の実態に接して深く心傷ついた末、終戦を迎えました。それだけに、戦後日本の民主化への期待は僕などよりは遥かに大きかったため、70年代以降それがみるみる退化していくことに対する静かな怒りも、殊更に大きかったようです。個人情報保護法成立時における不屈の反対運動など、正に城山君の面目躍如でした。

  他方同君は作家としては過去数十年間、時代や職業を問わず、尊敬に値する清廉高潔な日本人の生き様を、地味ながら力強い筆致で丹念に描きつづけました。高度成長からバブル景気を経て“第二の敗戦”にいたるまで、日本ではマスコミが総じて軽佻浮薄の風潮に流されていく中にあって、城山君こそ同じ昭和二年生まれで時代小説作家の藤沢周平氏などとともに、真摯な読者に深い感銘を与えつづけ、文学の品位を辛うじて保ってくれた真に貴重な孤高的存在でした。

  それにしてもこのところ、後輩の木村尚三郎君、先輩の牧野昇さん、同年の城山三郎君…と旧友に次々に先立たれます。散る桜、残る桜も、散る桜…、この世での友人が減った分“あの世”で僕を待つ友人が増えるのだなどと勝手に己に言い聞かせつつ、花の季節を切に心待ちする今日この頃です。

このページのトップへ

2007年3月21日

645 上海に見る中国の現代

 木曜〜日曜の三泊四日で、20年ぶりに上海へ講演旅行に行ってきました。新空港から都心へ向う車窓の景色が、索漠とした新開地に延々とつづく10~20階建ての集合住宅群から、やがて70~80階のオフィスビルの群立する異様な市街地へと変わる頃、もう昔の上海は消滅したと僕は観念しました。

  ただ、予約されていたシャングリラホテル新館は、ロビーの豪華で垢抜けした佇まいも、広いセミスウイートの自室の調度備品のインテリアセンスも、想像を絶する驚きでした。もっと僕を喜ばせてくれたのは、26階からの眼下の眺め。

  悠然と黄浦江が流れ、対岸を走る大通り(バンド)に沿って、何と旧租界時代のヨーロッパ式建築群が幻のごとく昔のまま立ち並んでいたではありませんか。背後には高層ビルも増えましたが、それらの谷間であの懐かしい旧市街が息づいていると感じた時、僕の心に突然、あの歌が蘇ったのです。

     涙ぐんでる 上海の 夢の四馬路の 街の灯
     リラの花散る 今宵は 君を想い出す…

  街へ飛び出すと、旧四馬路は書店や文具店の多い商店街で、名も福州路と改められ、夜な夜な脂粉の香りの漂った盛り場の面影は今や無し。その代わり旧市街では、若者向きトレンディスポットであるシンティェンディー(新天地)、いかにも知識人や教養人の集まる感じのトォールンルー(多論路)、中国版アーティスト・ヴィレッジとも言うべきタイカンルー(泰康路)など、壮大なだけでいかにも人工的な浦東新区にはない街が生れたのを知って、やっと上海へ来た思いでした。

  毎日部屋をメイクアップしてくれたメイドの仕事の完璧さから、帰途に空港まで乗った最高時速431kmのリニアモーターカーに至るまで、中国はもう昔の中国ではないと納得…。

このページのトップへ

2007年3月13日

644 ドラゴン桜と東大シンドローム

 先週土曜、品川のインターシティで開かれた多摩大大学院同窓生交流会に出席しようとJR山手線に乗り込んで驚いたのは、車内の広告が“ドラゴン桜+東大”一色だったこと。例えば、「東大に行けなかったお父さん、息子でリベンジしませんか…」。つまり、「息子に新発売のドラゴン桜“東大脳開発ソフト”を買って東大に合格させよう」、という意味の広告。

  僕の周辺では、テレビドラマで「ドラゴン桜」をちょっと見した程度の方はいても、当代若者に人気抜群の同名の漫画を雑誌で読んだ方は先ずいないでしょう。ましてや、この名を冠した各種ドリルから指導法までたくさんの関連本が広く売り出されていることなぞ、知る由もないはずです。東大の定員からいって、これらを買って勉強した若者の大部分が挫折を味あうことは必至ですから、この商法も一種の詐欺、いやその言葉が過ぎるなら、誇大広告とは言えるでしょう。

  それにしても、国内は経済が成熟して様々な職業での個性発揮の機会は増え、また世界はあらゆる分野でグローバリズムが進んで一国内での伝統的価値観は急速に無意味化しつつあるのに、なぜ日本では“東大病”患者が一向に減らないのでしょう。連続テレビドラマで「水戸黄門」が毎週お定まりの“葵の御紋”でイザコザに結着をつけつつダラダラ放映記録を塗りかえているのと同類の、日本独特の社会病理です。

  89年僕が多摩大を創設したのは、東大の落ちこぼれの受け皿を増やすためではなく、東大に象徴される日本の一流大学には到底期待できない高等教育を実現するという独自の理想からでした。95年に開設された大学院も同じこと。「…この建学の理念は今も教員や院生・学生の心に脈々として生きつづけているか…」と、僕は当日の出席者に熱っぽく訴えました。

このページのトップへ

2007年3月7日

643 ロースクールとビジネススクール

 法曹界の人員不足という現実を背景とし多分に政治的につくり出された法科大学院は、04年に発足したばかりで実績の評価もまだ定まらぬというのに、すでに70校以上が乱立して競合していますし、その俗称である“ロースクール”は本来の意味より狭い意味で短期間に日本語化してしまいました。

  これに対し経営大学院(=ビジネススクール)は、高度の経営的知識を具備した人材の必要性という実業界の要望にもかかわらず、主に日本の大学の(と言うより、旧文部行政の)時代遅れな体質の故に、62年慶応ビジネス・スクール(78年大学院経営管理研究科の一事業部に移行)がやや中途半端な形で設立されたのを唯一の例外として、以後30年間一校も生まれませんでした。一方MBAはLLMと対照的に、本来の意味通り早々と日本語化してしまったではありませんか…。

  日本における本格的ビジネススクールは、92年「グロービス・マネージメン・スクール」という名称で、文部行政と関係なく株式会社形態で創められたことは特筆すべきです。創設者は僕の年来の若い友人、堀義人君。京大卒業後住友商事へ入社し、やがて社内留学生としてハーバード大学ビジネススクールへ入学した同君は、その教育に深く感銘を受け、同校の経営を徹底的に研究しながらMBAを取得して帰国するや、退社して同校をヴェンチャーとして起こしたのです。

  その後間もなく文部行政がやっと変って株式会社形態の大学設置も可能となり、堀君の事業も昨年晴れて専門職大学院として正式認可されました。そこで先週は同君を始めて遠山敦子さんにご紹介し、今後のMBA教育に関しご意見を伺いました。遠山さんは文部省(文部科学省)在職中から、僕が腹蔵なく話のできた、ほとんど唯一の人物だったからです。

このページのトップへ

2007年2月27日

642 観光をめぐる狂騒の中の私

 19日愛知和男さんと昼食歓談の最中、突然「…水曜の昼、もし開いておられたら…」と言われたことから、何と翌々日、自民党の観光特別委員会(愛知委員長)でゲストスピーチ。話しつつ、思いは自ずと己の過去半世紀をさすらいました。

  まだMITにいた頃、松下立大総長から「本学でも設置したいので、コーネル大のホテル経営学部を視察報告してほしい…」という手紙が届きました。「…なんでコーネルにそんな学部が…」、「…イサカは車の日帰りは無理…」と納得しないまま訪ねたコーネルでしたが、ホテル経営学部の設備・人材の充実振りには、それこそ目から鱗が落ちる思いでした。

  帰国してみると、立教が文部省に申請した「ホテル学科」は、「ホテル学会さえないこと」を理由に却下されたとのこと。それを聞き、かねてから時代遅れな文部行政に疑問を抱いていた僕は大いに憤慨。再挑戦の責任者を依頼されるや、早速学術会議へ赴き、学会名簿の中から目ざとく「日本観光学会」の名を見つけ、“観光”学科で行こうと決意したのです。

  が、当時は“観光”のイメージが不当に低かったことから、文部省担当官との喧嘩越しのやり取り、学内では「カンコー学科なんて閑古鳥」…といった難産の末、67年わが国初の観光学科はやっと誕生。出願率16.1倍…。若者は大人より遥かに敏感に時代の風を察知していたことに感激したものです。

  80年代“観光ブーム”が到来して“観光”イメージは一変、観光は人気産業となり、全国の大学に“観光”学部・学科設立ラッシュ。(中略)03年小泉総理は「観光立国」などと言い出し、挙句は昨年末「観光立国推進基本法」なる大げさな名の法律が成立。この現状を簡単には喜べない僕の心境です。

このページのトップへ

2007年2月20日

641 St.Valentine's Dayの贅沢

 どういうわけか我が娘は、いろいろな分野の逸材と親しく面識があります。例えばその一人は、世界を舞台に活躍中の工業デザイナー奥山清行氏。昨年夏NHKテレビ「プロフェッショナル─仕事の流儀」が同氏を取り上げた際、娘から教えられ、僕は初めて氏の颯爽たる仕事ぶりを拝見しました。

  当時氏は、世界中の自動車メーカーから依頼が殺到するイタリアの名門デザインスタジオ「ピニンファリーナ」社のデザインディレクターとして、各国から集まった180人のエリートデザイナーたちを指揮していました。それぞれに個性的な風貌の仲間たちと激論を戦わせているシーンは、後の単独インタヴューでの氏の澄み切った目つき、また「…意見の衝突が大きいほど、いいデザインが育つ」といった鋭い発言と重なって実にかっこよく、さすがの僕も思わず唸りました。

  その後独立してトリノにデザインスタジオを開設した奥山氏は目下帰国中。先週のヴァレンタインデーには、娘を介して氏と昼食歓談をすることになり、折角の機会にと僕は、佐野力君と息子さんにも声をかけました。プロのレーサーとして活躍している次男の新世君を、大のマシン好きと聞いていた奥山氏に引き合わせたいと思ったからです。案の定、お二人は僕が紹介し終わるや否や、パリダカの話で盛り上がりました。それに佐野君の絶妙な気配り…。そのおかげで、当日のテーブルでは先ず59年(奥山氏の生年)のドンペリでの乾杯のあと、食事中はモンラシェ(ロマネコンティ社製白ワイン)で杯を重ねるという稀有な贅沢を味わえました。

  歓談していくうち、なぜか自然に“君づけ”で呼ぶようになってしまった奥山氏ですが、今後は仕事の範囲を家具から小物にまで広げるとのこと。氏の大成功を信じて疑いません。

このページのトップへ

2007年2月14日

640 本当に日はまた昇るのか

 80年代末、日本国民が活況に酔いしれ奢り高ぶっていた頃、逸早く“バブル”による破局を予言したのは、あのロンドン「エコノミスト」ビジネス部門編集長ビル・エモット(ベストセラー『日はまた沈む』の著者)でした。“失われた十年”にようやく薄日が差し始めた05年秋、彼は「エコノミスト」に長大な論文『日はまた昇る』を書き、日本経済がおぼつかなくも確実に再生しつつあることを逸早く予言したのみか、世界にとって今世紀最大の脅威材料である中国の膨張を穏やかに牽制しつづける歴史的使命を日本に期待したのです。

  この論文は補筆されて翌年日本で同名の本(吉田利子訳、草思社)として出版されましたが、その末尾は「この15年のうちに日本はある種の汎アジア連合の指導的メンバーになり、それが中国を牽制するに役立つだろう。…」と結ばれています。この“指導的メンバー”が原文では“the”ではなく“a” leading memberであったことにひどく共鳴していたせいか、先週のソウルでの講演でも僕はそのことを思い出し、「…OECDメンバー30カ国中ではわずか2カ国のアジア国である日韓には、超大国中国の経済発展が世界の期待へ向うよう努力し合う歴史的使命があります」と力をこめて結びました。

  ロッテホテル最大の「クリスタルルーム」での数百人着席の会合。それにしても、財界を中心に各界の錚々たる指導者が毎月一回朝7時に顔を揃え、朝食歓談を済ませてからとはいえ、講師の堅い話を聴いた後、活発に意見を交わしているという韓国。僕は高度成長期の頃の日本の相似た情景を懐かしく思い出しつつ、今の韓国社会の若さと真面目さを強く感じました。エモットの期待する世界的使命を果たすに足る気概が必ず日本の指導層に蘇ることを、切に念じてやみません。

このページのトップへ

2007年2月6日

639 国家と国家より個人と個人

 李秀賢。6年前JR新大久保駅でプラットフォームから誤って転落した日本人を救おうと率先線路上に飛び降り、無念にも事故死した韓国の留学生です。当時同君の行為は、日韓の心ある人々に感動を与えましたが、年月の経過の中でその名が風化することを惜しむ人々の協力により日韓合作映画『あなたを忘れない』が制作され、天皇皇后両陛下もご臨席という異例の試写会を終えて、先月末に一斉公開されました。

  僕も早速映画館に出かけて鑑賞し、感動を新たにしてきました。国家と国家の関係は、軍事・政治・経済…の利害のみか、歴史に由来する国民感情までが複雑に絡んで、良好な状態を保つことが困難です。が、生まれ育った国は違っても、個人と個人との信頼と親愛さえ生まれれば、たとえ国家同士は戦争状態になっても、友人の関係は不変でしょう。李君は正に、日韓の人間同士の関係の基礎を築いてくれたのです。

  日韓に関しては新世紀に入って以来、小泉首相の靖国参拝などもからんで両国の外交関係は冷え込んだ感があります。ソ連の崩壊後世界は米国一強のグローバリズムのもとで政治的に安定するかと見られていましたが、思いもかけず、中東産油国の経済発展、イスラム原理主義者の反米活動、ロシアおよび中国に代表される国家資本主義の台頭…といった新事態の進展によって、今や世界中で国際関係は波乱含みです。

  今週は韓国にお招きを受け、8日にはソウルの人間開発研究院で、同国の各界要人に対し創設30周年の記念講演をしてきますが、僕としては上記の信念を踏まえ、日韓が過去の不幸ないきさつを超克し、親密な連携によって何かと波乱含みの国際関係に新風を吹き込む必要を力説してくるつもりです。東アジアは、80代の僕の最重要課題の一つになりそうです。

このページのトップへ

2007年1月31日

638 中山克成君の成功を祈って

 5月にニューヨークでの再会を約して霍見芳浩君が帰国した先週末の夜、帝国ホテルで開催された「ベース株式会社創立十周年」の祝宴に招かれました。同社は日本の大手企業各社からコンピュータ・ソフトの開発を受託し、主に中国で業務を行うIPO直前の“オフショア・ビジネス”ヴェンチャーですが、創業者の中山克成社長が中国生まれの中国育ちという生粋の中国人であることに、その最大の特色があります。

  同君は中国の大学で情報工学を専攻してSEとして働き始めましたが、日中の経済・文化格差を活かした起業を志すや30歳の時妻子を伴って来日、日本の企業に9年間在職中に家族で日本国籍も取得した後、ベース株式会社を創設した人材です。同君のかつての中国名は沈克成。青年の頃から近代中国の生みの親とされた孫文を尊敬していた同君は、その字を姓とし、日本人として新しい人生の夢に挑戦し始めたのです。

  当夜祝宴に参集した数百人は、そのほとんどが同社と取引関係のある日本人ビジネスマンであると見抜いた僕は、記念スピーチで、こう訴えました。「…みなさん、ベース株式会社の成否は、日本の将来を左右します。大成功すれば、それに刺激されて、中国をはじめアジア各国から多くの優秀な人材が日本へやってきて活躍してくれるでしょう。人生に大きな夢を抱く多くの有為な人材が続々祖国を見限って海外を目指す日本の現在、人生の夢を日本に求め、日本国籍まで取得して新事業を起こした中山君です。彼のような外国人が日本で成功し、その波及効果で優秀な人材が続々来日して様々な分野で活躍してくれれば、閉塞気味の日本社会の活性化に多大な貢献をしてくれることは間違いありません…」と。

  外国人材のノーリターン化が日本で起こることを祈ります。

このページのトップへ

2007年1月24日

637 人材ノーリターン化の懼れ

 辛口ながら鋭い予見力の論客として日本でも名の通っている霍見芳浩君(現在ニューヨーク市立大学教授)が久しぶりに帰国したので、月曜夜は友人二人と夕食歓談しました。彼は慶応大学経済学部の学生時代交換留学生としてスタンフォード大学へ学び、一旦帰国して慶応を卒業するや再び渡米してハーヴァード大学のビジネス・スクールへ入学、そこで修士号のみならず日本人初めての博士号まで取得した秀才。

  そのまま米国に留まってハーヴァード、コロンビアなどの大学教授を歴任し今日にいたりましたから、当然のことながら慢性的人材超不足のつづく日本の大学からは招聘の話はあったのですが、彼はそれらには一切応じませんでした。その夜も、「お子さんも立派に独り立ちしたので、そろそろ帰国する気はないの…」という僕の問いに、「いやー、もうアメリカの水に慣れてしまって、墓まで買っちゃったので…」と。

  その時僕はふと青色発光ダイオードを開発した中村修二氏のことを連想しました。中村氏は勤務先だった会社を相手に訴訟を起こし、200億円という日本の産業史上画期的な技術報酬の獲得に成功したことで知られていますが、僕は彼の発明に対する日本の学界の態度の方に憤りを感じました。学歴とか会社の格と関係なく、その業績そのものを高く評価した米国に惹かれた氏は、カリフォルニア大学教授として渡米し、「二度と日本に帰る意思はない」と断言してはばかりません。

  両氏のような有名人であろうとなかろうと、ほとんどあらゆる職業にわたって、やる気と才能のある日本人が日本独特の息苦しい社会風土に嫌気を感じて続々海外に人生の活躍舞台を求めるケースが年を追って増加しています。人材から見放されていく国に、輝かしい未来は絶対にありえません。

このページのトップへ

2007年1月16日

636 ジュディ・オングに魅せられて

 有名人には敢えて近づかないというのが、僕の年来の主義。一方、好感の持てる有名人とはなぜか自然にめぐり合い交友が始るというのも、恵まれた僕の強運。今年は、初仕事がファンの一人ジュディ・オングさんとの雑誌対談という吉兆!

  天使のような白い衣装に身を包んだ彼女が、「女は海…。私の中でお眠りなさい」とテレビ画面で魅惑的に微笑みかけた79年、日本は二度にわたる石油危機をよく克服し、先進諸国の中で最も早く経済を安定の軌道に乗せて世界を驚かせました。親友のエズラ(ヴォーゲル教授)が『Japan as 1』を出版するや、世界各国が競って翻訳出版したのもその年です。

  「魅せられて」こそ、やっとめぐり来た平穏な日々の幸福感を日本人にしみじみ感じさせた歌でしたから、レコード大賞の受賞も当然。が、なぜかその栄光を境に花形歌手の世界から距離を置きはじめた彼女は、木版画家として営々と研鑽を積みはじめ、03年には見事日展入選まで果たしたのです。

  以後も彼女は、チャリティー・コンサートなどには積極協力してきましたが、歌謡界へ再び心が傾くことは全くなさそうです。また、11歳にして日米合作映画「大津波」でデヴューした彼女は、米国側の強い要請を受け、今春公開予定の『The American Pastime』に再び出演していますが、あくまで映画と役柄の社会性に心動かされたから引き受けたとのこと…。

  3歳で来日し、溢れる才能と環境が育んだ愛くるしい人柄の故に成長期の日本の芸能界で若くしてスターダムに上り詰めた彼女が、今、「美の世界で創作にいそしむ度に、なぜか自分を生んだ台湾の伝統の言い知れぬ導きを感じます…」などと物静かに語る時、年齢とともに深みをました彼女の天性の美貌はその魅力をさらに増した、とつくづく感じました。

このページのトップへ

2007年1月10日

635 The hope I may live young even at eighty ─80歳を迎える年のはじめに─

 今年80歳を迎える僕の若い頃は、戦中・敗戦・戦後と、時代の試練を受けつづけた厳しい青春でした。しかし静かにそれを思い返すたびに、その頃の僕たちは、何から何まで生活に恵まれている現代の若者たちより、遥かにひたむきに、また遥かに純粋に青春を生きたのだという満足感があります。

  戦いが深まっても、あの少女は日ごろの控えめさに似ず、周囲の冷たい目をよそにピアノのレッスンを決してやめなかったこと…。時におぼつかなく響くショパンを聴きながら、教師の家の石垣に腰掛けて待つ僕が懸命にそらんじた藤村の詩は、今も折りあるごと僕の口を衝いて滑らかに出ます。

  「わが心なきため息の、その髪の毛にかかる時…」と表現された己の欲望を恥じ、僕は『山の絵本』の詩人尾崎喜八の門をたたきました。…戦後のある日、先生と信州を旅した際、峠にじっと坐って遠き白き峰々の気高さに息を呑み、ニーチェの心境に浸れた一瞬も、泣けるほど懐かしい思い出です。

  航空技術者として敬愛する父を超えんと描いた少年の夢は敗戦とともに潰え、旧制高校時代に心ならずも文転してしまった僕は、結局大学教授として半世紀の人生を送りました。が、子供たちも健やかに巣立った今、僕は仕事のペースを固く守りつつ、妻とともに、“安らかな青春”を生きています。

  若くして幸い知遇を得た松下幸之助さんからあのウルマンの詩を教わった頃、僕はその深い意味を理解することもなくひたすらに感激していました。今は違います。年を重ねてこそ味わえる青春を称える彼の詩の一節一節は、日々の糧として僕の心を励まし、同時に癒しつづけてくれるのです。

  Youth is not a time of life ; it is a state of mind .

このページのトップへ

2007年元旦

634 新年おめでとうございます

 今年六月には待ちに待った満八〇歳になります。これまで企画を進めてきた新規プロジェクトの何れかは、是非とも今年本格化させようと張りきって新年を迎えました。何とぞ旧年にも増して深く温かいご交誼をお願い申し上げる次第です。

 貴家の皆様のご健勝を心から祈念いたしつつ、新年のご挨拶に代えさせていただきます。

このページのトップへ
このページのトップへ
copyright(C) Kazuo Noda.  All rights reserved.