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2008年6月24日

702 忘れえぬ無錫の旅

 太湖の辺にある景勝の古都、中国四大美女の一人西施誕生の地、産業立地条件に恵まれて今や外国企業3000社(うち日本企業1000社)が進出してひしめく人口600万の工業都市、「無錫旅情」で日本人に広く知られた街…、無錫市からお招きを受け、先週木・金曜同地を視察し、かたわら江南大学の元気な学生諸君に「高度経済成長日本の光と影」というテーマで講演をしてきました。どうやら無錫にはまりそうです。

事の起こりは、この春視察団を率いて来日した方無錫市長に対して中山克成君(Rapport-638でご紹介した上海生まれのアントレプレナー。僕を“親父さん”と呼ぶ仲)が僕を大げさに紹介したことにありました。日本でオフショアのコンピュータ・ソフト・ビジネスに成功している中山君は、方市長の懇請を受けて無錫への事業進出を決意し、目下その推進で大忙しの身であったにもかかわらず、今回は上海空港で僕を出迎え、3日間付き添ってくれたほどの孝行息子です。

無錫についての僕の印象の第一は緑。中国の巨大都市に共通しているのは、都心はもちろん近郊の緑地の貧しさ。無錫も駅前から旧市街は他の中国の大都市と大して変わらぬ乱雑混雑ぶりですが、それを南へ抜けて“新区”に入るや景観は一変して清潔洗練。とくに、湖畔の広大な公園の鬱蒼たる大木群とゴミ一つ落ちていない管理状態には驚かされました。

第二は自動車道路。中央緑地帯を挟む二車線と広い歩道脇に植えられた並木の見事さは先進国水準。第三は移設新装なった江南大学。12万坪の敷地の中心に象徴的な高層の図書館ビルを囲んで教育・研究施設群、その外側には2万5千人の全学生(内、院生5千人)を収容する宿舎群。日中の高等教育への力の入れ方の差を、つくづく感じさせられた次第です。

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2008年6月12日

701 秋葉原通り魔事件に寄せて

 綿密な計画にしたがい、白昼のホコ天で賑わう盛り場の路上に車を暴走させて数人を跳ねとばすや車を降り、所持したナイフで通行人を無差別に刺して17人を殺傷した犯人(敢えて容疑者とは言いません)は、(あるいは、本人の望み通り)日本犯罪史上に永久にその名を残すことになるのは確実です。

  こんな男にも、現行の法手続きにより所轄警察担当官による犯行動機や背景の聴取が行われ、やがて刑事裁判が始まると、検事と例の“人権派弁護士”団との間で長々とやり取りがつづき、何年か後にはほぼ確実に地裁で「死刑」の判決が下され、控訴が繰り返され、最高裁の最終判決も下り、死刑囚として何年かの独房生活を経て、刑の執行となるでしょう。

  「死刑廃止」論は今日世界的世論となりつつあります。もともとどんな論拠でどうして広がったのかは定かでありませんが、若い頃から冤罪の徹底的撲滅を念願して来た僕がこれまで本や論文で読んだ死刑廃止論は、どれもこれも僕を納得させてくれないどころか、論調の一般的重々しさとその論拠の軽さ(例えば、僕の大嫌いな「人の命は地球より重い」といった程度の)は余りに対照的で、説得力を欠いています。

  仮に、今回の秋葉原事件の犯人のような人物の罪一等を減じて無期懲役とし、将来仮釈放で彼が社会復帰した場合を想定しましょう。果たして死刑廃止論者たちは彼の仕事さがしから日常生活の世話まで、徹底して責任を持ってくれるでしょうか。そうでないなら、死刑を免れた彼の人生は死刑に処せられた場合よりも悲惨なものになる可能性は高いはず…。

  行過ぎた動物愛護論と同じく行過ぎた死刑廃止論は、善意の市民が抱いている正義感いや良識までも脅かす不当な社会的圧力に他ならず、僕はその種の圧力に屈したくありません。

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2008年6月4日

700 このクルーズの思い出

 アテネからヴェネチアまで(エーゲ海、イオニア海、アドリア海の島々や小都市を巡る)クルーズを終え、久しぶりの学長業への没入で珍しく崩した体調も完全に回復し、今日無事帰国しました。船は先年バルセロナ〜アテネの地中海クルーズを楽しんだSeven Seas Voyager号。仲間は澤田(秀雄)、庄司(正英)、南部(靖之)夫妻と僕およびワイフ。目的は暫し激務を逃れた創業者たちの僕を囲む水入らずの洋上勉強会。

  今ふっと心に浮かんだこの旅の思い出は三つ。先ずは「王妃の庭」。王妃とは抜群の美貌、自由奔放な性格、波乱万丈の人生の末の悲劇的な死…によって知られるオーストリア王妃エリザベト。イオニア海に面したコルト島の岬に今も残るその宮殿の庭を散策しながら、「もし雅子さんが皇太子妃にならなかったら・・・」などとあらぬことを考えたりしていました。

  次に「孫正義君の声」。ドブロヴニクの異国情緒溢れる街のレストランで昼食しながら男4人がクロアチア・ワインで盛り上がった最中、突然南部君が僚友孫君にかけた電話が(おりしも夕刻の経営会議直前の)同君につながったのです。すぐ僕に回された携帯で「オーイ孫君元気か。我々は大いに英気を養ってるぞ…」と呼びかけた僕に対する同君の、「イヤになっちゃうなぁ…」という寂しげな声は真実味そのもの。早速来年は必ず孫君夫妻を仲間に加えようと衆議一決した次第。

  最後は「ヴェネチアの鴎」。遠くから朝日に輝くあのヴェネチアの街が近づいてくるのを600人の船客が最上デッキの右舷に立ち並んで固唾を呑んで見守っていたその時。僕がふと気がつくと、目の前を通り過ぎた一匹の鴎。その悠然たる舞い方とわれわれを見下げたかのごとき目つきに、「ああ、ヴェネチアは鴎までがかくも誇り高いのか…」と、思わずため息。

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2008年5月21日

699 ザ・スタンフォード・チャレンジ

 久しぶりの学長職への現役復帰以来繁忙を極めた50日が過ぎましたが、十年間の退役期間中に、多摩大学学内だけでなく日本はもちろん主要海外諸国の大学界にも予想外に大きな変化が起こっていることを痛感させられた日々でした。

  海外の大学動向に関しては、当面専門誌で得た情報を状況判断の材料としたり、同僚や友人諸君との歓談の話題にして意見を貰ったりしていますが、大きな参考になります。例えば最近なら、「リクルート カレッジマネジメント」誌最新号で船守美穂氏(東京大学特任准教授)がスタンフォード大の近況に寄せて書かれた小論などが、とくに刺激的でした。

  一昨年秋同大学が上記のキャッチフレーズで目標総額43億ドルの大規模な募金活動を開始したことはかねて耳にしていましたが、何と昨年末現在すでにその目標は7割方達成されたとのこと。43億ドルと言えば、東京大学の年間予算規模の優に2倍。卒業生を中心に集められたこの巨額の寄付金を基に、同大学はハード・ソフト両面で21世紀の主要課題の解決に寄与できる大学への変身努力を開始しています。

  スタンフォード大はこの数十年研究・教育両面で万事順調に実績を重ねて社会的評価は上昇しつづけ、HPによると昨年の志願者数は史上最高を記録したとのこと。そうした現状に安住することなく、独創的な複数目標を設定し、それらを達成するために抜本的変革に挑むとは、何たる素晴らしさ!

  多摩大は、規模も歴史も実績も…スタンフォードに比すべきもありませんが、今の僕から見ると、何から何まで問題山積。しかもそれ故に、明るい未来を拓く戦略の検討を久しく怠ってきたとは、何たる情けなさ! 次期学長が勇んで就任できるための僕の“地ならし”努力は、これからが本番です。

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2008年5月13日

698 「青森立志挑戦塾」創設宣言

 “夢”という言葉が子供にふさわしいように、“志”という言葉は正に若者にふさわしい。夢も志もそれぞれの人生の望ましい将来像だが、子供なら誰もが心に描く夢はほとんどが淡い願望に過ぎないから、やがて人生の厳しい現実に遭遇するや儚く消えていく。他方志は、幸い“我”を自覚しえた若者だけが、ある時期ある契機で心中に人知れず立ち上げる確固たる、遠大な、そして何より感動を伴う具体的人生目標だ。

  いかなる職業に就いても彼らの志は、人生の厳しい現実に遭遇することによって挫けるどころかますます強まり、彼らの人生を充実させながら周辺の人々活気づけ、想像もつかないほど広範な社会的影響力を持つ。たとえ世間に広く名が知られることはなくとも、彼らこそが言葉の真の意味の世の“人財”である。古今東西を問わず、一国、一地域、一集団…の発展と繁栄は、必ず相当数の人財なしには実現をみなかった。

  この歴史的事実を踏まえて今回青森県は、県の輝かしい将来を担う人財の養成を目的とする「青森立志挑戦塾」を創設することとなった。しかも三村知事からは、青森とはこれまで縁もゆかりもなかったこの私に対し、その初代塾長にという要請があった。耳を疑いつつその創設の趣旨を伺った私は、迷うことなくこの要請をお受けはしたが、その後の私の心には、言い知れぬ責任感と期待感が日々高まりつづけている。

  塾生は県在住の30歳前後の社会人と聞いているが、本塾は卒業生に対し必ずしも将来の県内在住を求めてはいない。重要なことは、どこに住むかではなく、青森の将来のために何を、どう貢献するかだ。もちろん私はすでに、そのことが頭から離れない。志を同じくする諸君との出会いの日をわくわくしながら待つ80歳の身に、老いも近づくのを躊躇している。

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2008年5月7日

697 津軽三味線を生んだ青森

 ステージ右奥のキ−ボードのすぐ前が和太鼓、中奥のヴァイオリンを挟み左右にベースとギター、左奥にドラム、前に尺八。真正面には、高性能スピーカー付きの長大な椅子二つがでんと並ぶ三味線の席。この編成で想像される音楽公演は、と問われれば…。津軽三味線ライヴ以外は考えられません。

  30日夜、東京の新名所・赤坂サカス内のACTシアター落成記念行事の一環、(TBS+パソナ主催)「吉田兄弟デビュー十周年記念ライヴ」は、今をときめく奥秀太郎氏による幽玄な映像・演出を背景に、「じょんがら節」からおなじみの英国のロックバンドRadiohead の「The National Anthem」にわたる多彩な曲目の強烈な演奏で観客を酔わせました。

  江戸時代、粋な商人文化が生んだ長唄や浄瑠璃の普及とともに伴奏楽器として三味線は次第に脇役化していきましたが、最果ての地で貧しくつよく切なく生きる人々の心をしっかりと掴みつづけえたことによって、津軽には、三味線だけで北国の哀歓を見事に表現する独特の文化が育ちました。

  とくにこの半世紀、本流三味線がますますその伝統のままにお座敷芸に収まっていったのと対照的に、津軽三味線の世界では、高橋竹山はライヴによって日本の若者の心を掴み、山本竹勇は国際化への最初のたしかな道を見出し、吉田兄弟はいま、邦楽では空前の国際的評価を着々と高めています。

  その津軽三味線の里青森県では、三村知事の主導で、画期的な人材育成政策が今年から実施に移されます。毎年県内各地から選抜される社会人青年20人を1年間にわたって教育する“人材塾”はこの政策の目玉ですが、何と僕は知事の要請で、東京在住のままその初代塾長に就任することとなりました。津軽は僕にとって、もう遠い北国ではありえません。

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2008年4月30日

696 走る阿呆に 見る阿呆

 長野の聖火リレーで第一走者をつとめた星野監督が「国の命令なら仕方がない」と語ったという新聞記事を見て、「走る阿呆に、見る阿呆」と嘲った僕でしたが、日本を含め各国での一連の“聖火リレー騒ぎ”を単に愚かしいと批判するだけでいいのだろうか、という深い反省がやがて心に生れました。

  オリンピックの主催者はIOC(国際オリンピック委員会)。この一民間団体は、“世界的な人気スポーツ”という商品の優先的利用権を完全に確立し、各オリンピック開催式では、参会者全員に開催国の国歌・国旗とともにオリンピック賛歌・五輪旗の斉唱・掲揚を行わせるという、各国政府を事実上動かせるほどの権威を持つ国際機関となってしまっています。

  開催者は各都市で、正式には「招致都市」と呼ばれ、国内委員会を通して開催の申請を行い、IOC委員の投票による決定を待ちますが、今やオリンピックの開催都市となることがその都市のみならず国家の威信を高め、また莫大な経済的効果をもたらすことから、誘致活動が世界的関心事となり、反面スキャンダルの種にもなりがちなことはご承知の通りです。

  一時は各都市財政の過重負担やIOCそのものの財政危機さえ問題視されたこともありましたが、最近は放送権料やスポンサー料収入などの急増によって一段とIOCの権威は高まり、共産党一党独裁下での市場主義経済の成功に自信満々の中国指導者すら、その権威にしたがって意のままに膨大な設備投資を行い、(聖火リレーを含む)公式行事を行う現状です。

  強国の指導者が自国民のナショナリズムを鼓吹し、弱小国国民がそれに恐怖と反発を強めていく場、オリンピックがそこまで成り下がったとすれば、創設者クーベルタン男爵が掲げた「世界平和」の理念は全く失われたと断定すべきしょう。

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2008年4月22日

695 ジュディに魅せられて

 70年代を生きた人なら誰も、通貨・石油の二大危機を切り抜けてようやく安らぎと希望を抱けた日本人の耳に泣けとごとく響いていたあの曲に懐旧の思いを禁じえないはず。いや、曲だけではありません。連日のようにテレビに映し出された端正な美貌、澄みきった声、天使のような衣装、しなやかな身のこなし、ただよう優雅な雰囲気…。そうです、あの時代の日本人は老若男女を問わず、ジュディ・オングさんの『魅せられて』に魅せられて、幸福感に浸ったものです。

  何年か後、ある雑誌の座談会がきっかけとなって思いがけず彼女と親しくなり、お互いに家族を紹介しあい、冗談も交すことができる仲ともなりました。何よりも嬉しいのは、実現したい将来の夢を語り合えること。例えば、異色建築家である彼女のお兄さんと異色事業家である僕の三男坊の豊とを引き合わせて、史上空前のホテルを出現させるといった…。

  そのためには先ず、豊のやっている事業を是非ジュディに見てもらおうと思っていたところ、ちょうどわが友小中村政廣君が僕の考えを最大限受容して創りあげてくれた関西一の壮大なマンションが完成したというので、先週末はジュディを誘い、このマンションのほか、息子の経営する御影の「蘇州園」(旧弘瀬家別荘)、京都の「ザ・ガーデン・オリエンタル」(旧竹内栖鳳邸)、名古屋の「The Kawabun」(料亭「河文」新館)を2日間にわたって案内することができました。

  かたがた、桜後の花を求めて彼女に京都の春を満喫してもらうはずでした。が、大阪から南部靖之君、東京から豊も駆けつけ、花そっちのけで、今後展開したい新事業の夢を語りつづけたのです。僕の懸念をよそに、疲れた顔も見せず彼らの話を終始にこやかに聞いていたジュディに改めて感銘!

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2008年4月15日

694 久しぶりの教員三昧

 「教員ラウンジ」は多摩大の名物。さして広くはありませんが、バーもあればピアノもあり、広い窓から見える奥多摩や大菩薩連峰の眺めは抜群で、昔から僕の大好きな場所。学長代行となって早くも2週間。僕は学長室など一度も入ることなく、大部分このラウンジのソファーに座って、やってきた教員や職員と歓談を交わしました。僕は小声では話せませんので、結果的には、交わされた話の内容は実質公開…。

  教員ラウンジへ行くために、車を降りてからキャンパスを横切り学生ラウンジの脇を通ってエレヴェータに乗るまでには、当然たくさんの学生に会います。こちらから「おはよう!」と声をかけると、大部分の学生は(新入生以外はまだ僕のことを知りませんから)びっくりしてすぐには返事が返ってきませんが、時に「おはようございます!」という元気な声が返ってくると、「いい声だ。いい人生が送れるぞ!」と褒めてやります。どんな職業についても、明るい挨拶は成功の基本条件。はじめて訪れた人が学生たちから明るい声で挨拶されてびっくりするような、そんなキャンパスの雰囲気をつくることが、学長代行としての僕の最大の目標の一つです。

  学生納付金が大学収入の8割を占めている以上、大学の主たる目的は学生満足。しかし、甘やかすことが満足にはつながりません。先日キャンパスで4〜5名の学生に取り囲まれ、「ロッカーつくってください!」とせがまれた時、僕は言いました。「よし、つくろう。しかし、そんな小学生のような頼み方はするなよ。学内のどこへ、どんなロッカーを何個…、当初に必要な資金の総額とその後の運営方法…と計画書をつくって早急に僕に提出しろ。多摩大ロッカー株式会社を学生主導で設立し責任をもって運営するなら、僕は喜んで出資してやるから、君は社長になる気で計画を練ってみろ!」と。

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2008年4月9日

693 大学に球場のような元気を!

 僕に負けない“虎キチ”の友人から「突然の出張が入って…」と阪神×巨人戦のチケットを贈られ、5日夜は久しぶりに東京ドームへ…。 両軍ともヒット4本という一見冗長ともいえる投手戦でしたが、鳴り止むことのない応援が醸しだす異様に楽しい雰囲気の中で観戦する僕たちは、時に歓喜し、落胆し、叫び声を挙げ、思いきり拍手し、立ち上がり…、最後まで全く退屈することなく2時間半をたっぷり堪能。

  その日の朝、多摩大学の入学式があり、13年ぶりに、学長代行として新入生たちにスピーチをしました。まだ入学定員が300人強だった頃、その倍ほどの収容力があれば十分だとつくった大ホールは600人の新入生で満席となり、付き添いの500人の方々は別の場所でテレビ視聴していただくという一見盛況の状況でした。だがいざ式がはじまると、昔の多摩大らしい雰囲気がないなと、すぐ感じたのです。

  全員の名前を読み上げて返事を求めるという、開学時(入学定員160人)のやり方を(人数が4倍増した現在も)踏襲しつづけ、あらゆるイヴェントにとって決定的な冒頭の“盛り上がり”の重要さ度外視したことが問題でしたが、もっと気になったのは学生の返事。「ハイ!」といかにも青年らしい爽やかな声は、数えるほど。僕は早速その後のスピーチの冒頭で、「声は力、姿勢は心、目つきは希望…、たった一回しかない人生を素晴らしいものに創りあげるために、何よりもまず、この三つを片時も忘れるな!」と大声で“喝”。

  阪神×巨人戦を観戦しながら、あの学生たちもここに居たら別人のように元気になるだろうと、何度も思いました。キャンパスの雰囲気を球場のように盛り上げていくこと、これこそ、多摩大学長代行として僕が最初に取り組む課題です。

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2008年4月2日

692 『明日への遺言』を観て

 家族とともに、人生で友人ほど有難い存在はありません。 仙台を去って5年にもなるのに、仙台に住んだ5年間に培われた友情は、今も変わらず続いています。富田秀夫君は仙台へ行くたびに僕のゴルフの無二のプレーイングコーチですし、野口昌志君はたえず仙台の最新情報を伝えてくれます。

  その野口君から映画『明日への遺言』を絶賛する一文を添えてチケットが贈られてきたので、この日曜は朝一番で渋谷の映画館へ…。この作品の主人公は、戦時中東海軍司令官をつとめ、撃墜され捕らえられたB29 搭乗員38名を処刑した罪により戦犯として絞首台の露と消えた岡田資中将です。

  シーンは終始旧横浜地方裁判所法廷とスガモ・プリゾン、セリフはほとんどが法廷でのやりとりという地味な作品ですが、岡田中将を演じた藤田まことの迫真の演技を、法廷での検事および弁護士役の米国人俳優、それと傍聴席・面会所での日本人俳優たちが巧みに盛り上げて、裁判の進む過程で僕は泣けて泣けて、花粉症の涙も枯れてしまう程でした。

  中将は最後まで、「戦時中の日本の都市への米空軍の無差別爆撃は一般市民への大量殺傷行為として国際法にもとり、実行犯である搭乗員は極刑に処せられて致し方なし…」という主張とともに、処刑に関わった部下は命令に従っただけで無実であると自らの責任を貫き通した点、石原慎太郎都知事に中将の爪の垢でも飲ませてやりたい気にも駆られました。

  同時代を生きた日本人として、氏のような軍人は恐らく稀だったと、僕は今改めて感じます。靖国神社に合祀された戦犯の中にも氏のような廉潔の士もいたとはいえ、祀られている約250万人がみんな氏のような人物だったはずはないわけで、それこそが「靖国」問題の盲点だと、僕は信じます。

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2008年3月25日

691 帰去来兮 田園将蕪胡不帰

 一週間後、つまりこの4月1日から、学長代行として久しぶりに多摩大学に現役復帰します。…と書けば、どなたもエープリル・フールと思われるでしょうが、この3月末学長任期の満了する中谷巌君の後任にはまた素晴らしい人物が既に五代目学長に内定しているものの、その着任が4月から半年〜1年遅れざるを得なくなったため、法人理事長よりのたっての要請により引き受けることにしたのです。不承不承ではありません。むしろ勇んで引き受けたと言うべきです。

  今年金婚式を迎えるワイフにも相談しませんでしたから、後でそのことを知った彼女から「年甲斐もなく…」と叱責された時、思わず僕の口を衝いて出たのは、むかし中学の漢文で習った陶淵明の詩の冒頭の一節、「帰りなんいざ、田園まさに蕪れなんとす なんぞ帰らざる」でした。働き盛りにして知事の地位を退かざるをえなくなった陶淵明の淡々たる心境とは全く逆に、僕は、還暦が迫る頃理想に駆られ、努力を重ねて創り挙げた多摩大学から、かつてのような際立った個性も、はち切れる元気も、また自由闊達な雰囲気も失われてしまったことに、いま傍観できない苛立ちを感じています。

  先月はじめ全教職員にメールし、「多摩大にとって何が問題なのか、その解決のために先ず何をなすべきか」の意見を求めるとともに、この数週間精力的に関係者と会ったりしながら多摩大再生のための施策を立案中で、ちょうど多摩大の創設を進めていた頃と同じ情熱が心の中に熱くみなぎっています。状況は当初僕が予想していたよりは遥かに厳しく、結果として表れた入試倍率も、初年度の33倍強などという数字は錯覚だったかのような思いにすら囚われます。が、ご期待ください。困難は昔から僕のやる気の促進剤なのです。

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2008年3月18日

690 これぞ、僕のオフィス

 ウッフィーツィと言えば、多くの人がフィレンツェにあるあの世界有数の美術館を想い起されるでしょう。16世紀末豪商メディチ家の宗主が壮大な事務所ビルを建設した際、来訪する特別な客をもてなす場としてつくられた3階の回廊(ガッレリーア=ギャラリー)に、同家の所蔵する美術品を展示して見せたのが、その起源とされています。ですから、以来その名もウッフィーツィ(=オフィス)と呼ばれるとともに、回廊形式の美術館(=画廊)が世界に定着したのです。

  もう30年も昔始めてそこを訪れて上記の事実を知った時、僕は非常な共感を覚えました。戦前から(事実上今に至るまで)日本のオフィスには、事務所という訳語にふさわしく、味気ない仕事空間というイメージが完全に定着しています。実は僕はその納得できない現実に抗し、40年前まだ立教大学助教授の頃、赤坂の一隅にささやかな個人オフィスを開き、現在まで同じ赤坂界隈で7回オフィスを移転しながら、一貫して自分の趣向でオフィスを(味気ない仕事の場でなく)わくわくする知的創造の場として維持してきたつもりです。

  メディチ家など羨んだこともありませんが、多くの友人が集い、歓談を楽しむための条件を狭い空間の中にハード・ソフト両面で可能な限り整えて客人を待つのは、僕の人生最高の生き甲斐。「(ホテルやレストランより)やっぱりノダちゃんのオフィスがいい」と言ってくれる友人も増え、(秘書たちは多分)秘かに嬉しい悲鳴をあげているに違いありません。

  その最たる一人は平松守彦先輩。先週木曜午後も久しぶりに上京された同氏を囲み、堤清二・壇ふみ・(ようやく病癒えた)筑紫哲也君らと侃侃諤諤+和気藹々に、いつもながら時が快く流れていきました。これぞ、僕のオフィスなのです。

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2008年3月10日

689 日本・日本人・日本国

 在外邦人数は05年度で100万人(内、定住者31万人)を超え(外務省)、以後も急増中と推察されます。日本に生まれ育った日本人が現在ほど多く海外諸国に移り住み、殆ど全ての職業分野で活動している時代は有史以来ありません。

  その中とくにスポーツとか音楽とか学術とか…で傑出した成果を挙げている日本人は、マスコミが繰り返し取り上げることによって、その名が国内でも広く知られていますが、実は日本では無名ながらも、ある国、ないしある地域社会において特定の職業で広く知られている日本人となると、国内でも有名な在外邦人の数の多分数十倍はいるでしょう。

  さらに、ある外国の国内はもとより、その国のある地域社会内でもとくに有名ではないにしろ、一職業人ないしは専業主婦などで外国に定住し、職場の仲間として、一友人として、あるいは一隣人として愛され信頼されている日本人の数は、上記の日本人の数の更に数十倍には軽く達するはずです。

  僕が直接知っている限り、彼らは総じて日ごろ巷で見る日本人より遥かに生き生きとしています。彼らの大部分は、その職業を通してある国に具体的貢献をし、その結果得た所得の中から相当分の税金を納めることによって間接的貢献も果たしています。と言うことは、彼らが去ったことによって、日本国は貴重な人材による貢献を二重に失っているのです。

  「今の日本は、自国に生まれ育った貴重な人材が去った分、その代わりに、外国に生まれ育った貴重な人材を惹きつけ、満足して定着させるだけの魅力を持った国なのか」、僕はこれこそ、日本国の将来を左右する最重要命題と考えています。

  以上は、今日午後「東洋経済」誌の取材で訪れた若い美人記者を前にして、一気に喋りまくった持論の一部でした。

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2008年3月4日

688 一庶民にとって国家とは何か

 昨日東京外為市場で円が3年ぶりに102円台に急騰し、お蔭で株式市場では株価が一時550円以上も下落した結果、日本政府の久方ぶりの為替介入の噂まで流されました。が、円安の恩恵など直接に受けていない反面、ここ数年ヨーロッパ旅行で物価高を切実に感じてきた僕たち夫婦にとっては、噂がもし真となれば、極めて遺憾な母国政府の行動です。

  70年代以降のしぶしぶの開放政策の実施と、90年代以降のグローバリゼーションの進展によって、生まれ育った日本を去って他国に移り住み、いろいろな職業に就いてそれなりの収入を得ている日本人の数は予想外に増加してきています。今ではどこの国に住もうと、日本を行き来するのはいとも容易なことですから、彼らにとっては僕たちとは逆に、円安政策は、里帰りに際し歓迎すべき母国政府の行動でしょう。

  つまり日本政府は、母国を見捨てて他国に定住している日本人には思わぬ恩恵を施しながら、主として大企業の業績を気にするために、母国に住む庶民の不利益を犠牲にすることなど大して気にならないに違いありません。90年代以降それこそ呆れるほど長々とつづけられてきている低金利政策に関しても、全く同じことが言えるでしょう。かつての戦争犠牲者ほどではないにしても、日本の庶民は今こそ、国家から受ける“間接被害”を改めて真剣に考え直すべきです。

  ところで、今日は今秋金婚式に漕ぎつけるわが妻の72歳の誕生日。広尾のイタリア・レストランで子供たちがその誕生祝の宴を開いてくれました。6年間に生んだ3人の息子と一人娘を健やかに育ててくれた彼女の苦労に感謝しつつ、子供や孫たちの未来にとって国家が頼りにならないまでも、せめて迷惑な存在にならないことを切に祈る親の心境でした。

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2008年2月26日

687 気分大転換の一日

 16日は早暁に起き、アンコールワット西大門裏の石塀の敷石に座って、東方に聳える五本の寺塔の彼方から上る太陽を待ちつづけたものです。この壮大な遺跡の一端に身を置いてかのクメール王朝の栄華を偲んだ僕の口を自然について出た「奢れるもの久しからず…」という言葉が、同時に「世界の奇跡」と謳われた戦後の溌剌たる経済成長から今一転して息苦しい閉塞社会へ転落した祖国の遣る瀬無い姿を連想させ、帰国した19日まで心底に居残らせてしまいました。

  それに、空港売店で買った『エコノミスト』誌の特集が、皮肉なことに「没落する日本」。しかし、疲れも癒えた翌々日は、僕の気分一新のための充実の一日でした。朝は、旧友盛田正明君宅に電話し、同君が私財を投じて米国へテニス留学させた錦織圭君の米国男子ツアー優勝を祝福。昼は、赤坂のオフィスで、寺島実郎君と会食しながら聞いた東アジア研究センター設立構想に感銘。午後は、来訪した女流映画監督(07年カンヌ映画祭審査委員賞受賞者)河瀬直美さんと意気投合。夜は、南部靖之君主催夕食会での想定外の刺激…。

  この会合では、月末にドイツに戻る川久保賜紀嬢のストラディヴァリウスの演奏をごく少人数で鑑賞する予定でしたが、急病に倒れた彼女の代わりに、同じく帰国中の(ボストン交響楽団オーボエ奏者)若尾圭介氏と南部君の愛娘靖佳さん(ジュリアード音楽院卒のフルーティスト)お二人の演奏が僕たちを十分楽しませてくれました。その余韻覚めやらぬ間に、出席者の前原誠司氏(民主党副代表)の憂国発言に対し村上誠一郎氏(自民党副幹事長)が激しく反論、それを金子一義氏(自民党・衆院予算委員長)が巧みに収めるというど迫力劇があり、23時、僕は気分上々で帰宅できた次第。

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2008年2月12日

686 一般脳と個別脳

 東京が大雪に見舞われた先週の日曜日、ある会合で初めて茂木健一郎君の講話を聞きました。同君は脳科学者という肩書きで現在マスコミの寵児になっていますから、多分皆さんもその名前や顔はすでによくご記憶のことでしょう。その日僕には、茂木君の講話のあとご本人に直接伺いたいことがありました。それは“一般脳”と“個別脳”についてです。

  僕は40歳前後の頃、有難いことに松下幸之助さんや本田宗一郎さんをはじめ多くの素晴らしい創業型経営者の謦咳に接する機会がありましたが、この方々が最もよく使われたのは“運”とか“縁”、あるいは“勘”とか“閃き”といった言葉でした。その度に僕は、それらの言葉の意味内容が僕には漠然としていても、その方々の頭の中では明確に意識されている“智”(独自の知識とか体験の蓄積から抽出される能力=僕が“個別脳”と呼ぶもの)のはずだと感じました。

  これに対して、少なくとも今日時点で脳の専門家が説明してくれるのは、人間なら誰でも持っている脳(一般脳)の構造とか機能で、個別脳の働きについては、僕を納得させる説明が全くありません(例えば、「アインシュタインの脳が普通の人より重かった」といっても、もっと重かった人が何故アインシュタインほどの業績を残せなかった説明はつかないように…)。要するに人間の脳の神秘を解明するには、どうしても“個別脳”の領域に踏み込むべきだ、と僕は信じます。

  ただ、茂木君によれば、最近米国の一脳科学者が、人間にだけに可能な“他人の気持ちを推し量る能力”に関する理論を発表し、注目されているとのこと。僕が名づけた“個別脳”の研究が進めば、各界の卓越した人物が暗示的に表現してきた“智”も、近い将来必ず科学的に解明されることでしょう。

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2008年2月5日

685 GCA─教育再生への大いなる挑戦

 春を迎えることほど遠く、教育再生会議が先週末終幕しました。信念あって理念なく、発想あって構想なき首相の目玉商品だっただけに、雑多な委員構成が終始災いして意味なき議論が繰り返され、実質的実りのない結果でした。しかし、この会議の無残な結末と関係なく、何から何まで閉塞状態に追い込まれた現在のわが国が未来に活路を見出すためには、“教育再生”は本腰を入れて早急に取り組まねばならぬ最重要な国民的課題であることは、誰も否定できないはずです。

  半世紀以上にわたって教育現場から離れることのなかった僕自身の経験に立って言えば、教育再生を決定的に阻んでいるのは、明治以来百数十年にわたってつくりあげられ今では国民の間で常識化している日本独特の教育制度、慣習、価値観…。それらのほころびを見つけて個々に修復しようと努力しても、真の教育再生の効果は無理と思われます。こんな僕の考えに近い教育再生を実行に移したのは、旧友福武總一郎君(ベネッセコーポレーション会長)。同君は、実践を過度に軽視する日本の教育(制度・慣習・価値観)に疑問を抱き、感銘を受けたオーストラリア式教育を日本の若者に広く開放しようと、昨年シドニーに現地法人を設立しました。

  同国では大学に比肩する社会的評価を持ち、かつ相互交流が自由な総合専門学校TAFE(Technical and Further Education)の教育の機会を、日本式教育になじめない(いや犠牲になっている)日本の多くの若者たちに与えること、それがこの法人GCA(Global Career Academy)の目的です。その社長として白羽の矢が立てられたのは、何と僕のもとで長年国際プロジェクトに従事した才媛、清水祐子君。GCAは必ず日本の教育再生論議に一石を投じてくれるでしょう。

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2008年1月30日

684 国の行方など憂うるなかれ

 親友エズラ(ヴォーゲル教授)の教え子でハーヴァードの院生時代に僕のもとで卒論を書いたリック(リチャード・ダイク)は、卒業後再来日して事業家として成功。人柄は抜群で交友範囲は広く、趣味も豊かで、とくにクラシック音楽の趣味は高じて、時に楽団を指揮するほどの素人芸の持ち主。

  東フィルの役員に名を連ねているとはいえ、同楽団が招く外国人音楽家に対する面倒見の良さには頭が下がります。結果として、驚くほど音楽家の友人をたくさん持っており、公演終了後催される個人的夕食会に僕とワイフをよく招いてくれたりもします。僕がチョン・ミョンフンの熱烈なファンだったことを知っていて、わざわざ彼を僕に直接紹介してくれたのもそんな夕食会においてでした(Rapport−674)。

  この日曜も東フィルの「午後のコンサート」に僕たちが招かれたのは、「パスカル・ヴェロ(フランス人指揮者)と晴雅彦(バリトン歌手)は絶対に野田先生と気が合うから、公演のあと一緒に夕食しましょう」という電話からです。

  夜は先約があり、当日は東京オペラシティのコンサートだけ楽しませてもらいましたが、確かにヴェロはチョンに劣らぬ躍動感に満ちた指揮をし、また大阪育ちのソリスト晴は(何回も観客を爆笑させる吉本興業のタレント顔負けの)軽妙洒脱な司会者との一人二役を見事に演じて、僕は大いに堪能しました。遠からずこの二人とは必ず交友が深まるはずです。

  生まれ育った国である日本への愛着(自然の愛国心)は当然ありますが、一方「選んでこの国に生まれてきたわけではない」という僕流の考えから、とくに日本の行方を憂いたりは極力しないことにしています。国籍を問わず気心の合った人々と共に、限りある人生をエンジョイしたいだけです。

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2008年1月22日

683 中年症候群に取りつかれぬために

 先週先々週と大阪・東京で盛大に開催されたパソナ社恒例の「プログレス・ミーティング」にお招きを受け、スピーチをしてきましたが、同席した竹中平蔵君がスピーチの中で引用した“中年症候群”(middle-age syndrome)が大いに役立ちました。もともとは出井伸之さんがダボス会議で始めて使ったのだそうで、閉塞状態の社会に生きる多くの日本人の複雑に揺れる心理状態を端的に意味するとのことです。

  とくにサラリーマンという職業についている中年日本人の多くについて一般に言えましょうが、厳しい企業環境の進展で終身雇用と年功序列に象徴される経営慣行が事実上解消していく現実に当面し、彼らは忍び寄る将来の不安を感じつつ生きるようになります。と言って、今更この不安を克服する知恵も勇気もないため、なおさら不安が募り、挙句は“うつ病”で社会生活ができなくなる人も増加中とのこと…。

  そこで当日は満堂の聴衆に訴えました。幸い聴衆のパソナ社員および派遣社員諸君の大部分は青壮年でしたから、「今日からでも(会社員としてではなく一個人として)@長期的なだけでなく、A達成した時の感動を予感しうるような人生目標(=志)を立て、B折りあるごとにその達成を心に念じ、同時に、考えて考えて考え抜こう!」と活を入れたのです。

  若い頃から志を胸に常に前向きに生きた僕には、中年症候群なぞ全く無縁でしたが、お蔭で傘寿を過ぎた今でも、例えば複数の画期的大学設立計画に深く関わる一方、昨秋の左腕骨折を契機にそれまですっかりマンネリ化していたゴルフを猛反省し、今年は必ず80台で回ろうと練習を重ねています。「青春とは心の若さである」というサミエル・ウルマンの詩が本当に分かる心境に、やっと到達したような気がしています。

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2008年1月16日

682 良運と良縁あって物事は好転する

 今年の初仕事となった8日の長野への日帰り出張で、運と縁の不可思議な力を改めてつくづく感じました。出張の目的は礼法小笠原流理事として宗家を村井長野県知事にご紹介し、今後のご助言をお願いすること…と書くと、「えっ、野田さんがどうして小笠原流の…」と驚かれるに違いありませんが、実はそれこそがそもそも今回の運と縁の緒なのです。

  礼法小笠原流宗家の名は代々「敬承斎」。誰でも白髪の老人を連想されるでしょうが、現在の宗家は妙齢の佳人。約十年前先代が逝去された時、適切な後継者がおられなかったことから、姻戚の彼女に白羽の矢が立てられ、彼女はそれまで想像もしていなかった新しい人生を歩み始めます。僕が彼女と何となく知り合ったのはその頃でしたが、親しくなってから何と彼女が椎名武雄君の夫人翔子さんのお嬢さんと聖心の幼稚園から大学まで同級生だったことを知ってまず驚きました。その後柄にもなく理事まで引き受けながら、深窓の令嬢育ちの彼女に果たして宗家の大役など務まるのかという懸念を抱きつづけていましたが、どうしてどうして、彼女の才幹と努力で、今や小笠原流は堅実な発展の過程にあります。

  松本城を築いたのは小笠原家ですが、松本出身の村井さんは学生時代先代宗家に親しく兄事し、大きな感化を受けられました。その村井さんは通産省在職中には、僕の敬愛する先輩平松守彦さんの腹心の部下として共に働いた仲。まだあります。当日知事室で僕たちを迎えてくださった若い善光寺徳行坊住職若麻績眞海氏は、僕の三人の息子たちとは暁星高校の同窓で、名物校長だった僕の旧友田川茂さんの愛弟子…。

  今回のことに限らず、二重三重の良き運と縁に導かれてこそ物事は自然に好転していく、それが世の中の理でしょう。

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2008年1月8日

681 新年堪能沖縄

 新年をいかがお過ごしでしたか。僕は暮れから正月にかけて家族と沖縄で過ごしました。我が家の沖縄行きは海洋博以来ですから、何と30余年ぶり。その間に空港も道路も街並みもホテルも…信じられないほど一新された沖縄の姿に驚かされながら、あの頃やんちゃで散々苦労させた子供たちが立派に成人したことを、何度も妻と喜びあった次第です。

  最も強烈な印象として残ったのは、やはり、聞きしに優った「沖縄美ら海(ちゅらうみ)水族館」。海洋博跡地に開設された国営記念公園内の水族館が老朽化したため一時閉館し、02年に新装開館した世界に誇れる施設です。中心に位置する最大海水槽(容積7,500m3、高さ8.2m、幅22.5m、アクリルパネルの厚さ60cm)の中で、大小各種何百匹の南海魚に混じって体長5〜6mの3匹のジンベイザメや十数匹の珍魚マンタが悠々と泳ぐ様を、僕は大勢の観客に交じって、年甲斐もなく、まったく時を忘れて見つづけていました。

  これといった産業の無い沖縄にとって経済発展の先導力は観光だとすれば、この水族館は十分目玉になりますが、やはり社会基盤の整備は先決。これが一応成った今、沖縄は日本の最南端の地としての亜熱帯的気候と豊かな物産と開放的気質…でいよいよ本格的に本土の観光客を確実に惹きつけ始めています。ハワイの休暇も悪くありませんが、3日4日となると多くの日本人にとって食事の不満がつのりますが、少なくとも沖縄は、その点で明らかに分がありそうです。

  今回唯一の誤算は天候。連日気温が例年より5度も下回った上に強風で体感温度は10度以下。この悪条件下、僕は31日に娘夫婦と1R、元日に三男と1.5R果敢にゴルフに挑戦。スコアの乱れも天候のせいと、意気揚々の休日でした。

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