nodakazuo.com 野田一夫 WebSite
プロフィール
関連リンク
野田一夫かく語りき
 野田の最も忌み嫌う言葉に、「和をもって貴しと為す」がある。「この言葉がこれほど国民の間に浸透した国はない。むしろ和をもって怪しいでなければ」
 これを嫌というほど味わったのが、戦中生活だった。「戦前に経験した国家権力に対する徹底した反骨精神がある」と野田は言う。中学時代、配属将校が生徒を集めて軍事教練を行う。その際「日本に石油が出ないのは精神がたるんでいるからだ」と訓話。馬鹿馬鹿しさに笑う生徒をビンタで殴り、後々までそれを記録して、出征の際、戦場の最前線へと送った。優れた航空技術者である父親から「合理主義」のDNAを受け継いだ野田は、日本社会が持つ「不条理性」がどうしても許せなかった。こうして野田は、自ら「イレギュラーなジャパニーズ」、つまり「変わった日本人」であることを自覚するのである。それゆえ野田は日本が自分に与える「立場」を身をもって徹底否定することにした。
 戦後、日本全体が敗戦と共に国家主義の重圧から「解放」された。
 「その解放感が結果として戦後日本の高度経済成長を創った」と野田は言う。そしてソニー、松下らに、「戦後合理主義の最も純粋な発露」を学んだ野田は、自分の属する大学という組織にその解放感がないのを悩みつつ、「せめて自分が教える学生だけは、イレギュラーなジャパニーズを創ろう」と考えたのだった。
米国でのカルチャーショック
「この国には『機会の流通』が極めて巧みに浸透している
 折から日本経済が戦後の成長軌道に入り、ソニー、松下等の急成長企業を研究した若手研究者、野田一夫に注目が集まる。経営者と社員が同じ立場で働く企業組織の強さを分析した、P・ドラッカーの『現代の経営』の監訳を行ったのも、新たな時代の息吹を日本人に伝えるためだった。集団主義から解放された戦後のこの時期は野田自身、「日本で生きていても気持ちよかった」という。
 この理念に方法論と確信を与えたのが、立教大助教授時代、アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)から招聘された2年間の留学である。
 野田はさっそく大学の教え子である妻の敏子を伴い渡米した。MITでの2年間は「人生最大のカルチャーショック」だった。MITは、研究機関として莫大な年間収入を得る一方で、「全体の僅か20%に満たない授業料収入でも、国内外から集まる人材に徹底した教育を施す。しかも教員、学生、すべてが知的で明るかった。これこそが自分の納得のいく大学だと思った」。
 P・ドラッカーを訪ねるとすぐ、ハドソン研究所の未来学者ハーマン・カーンを紹介された。また成功者の分析を行ったナポレオン・ヒルの著作を読み、無名時代の彼が鉄鋼王のA・カーネギーに手紙を書くと「会いたい成功者に紹介の手紙を書いてあげよう」と返事が来て、それが彼の成功の出発点となったことも知った。この合理主義の国には「オポチュニティー(機会)の流通」というものが、極めて巧みに浸透している。この国ではその「夢」を実現するチャンスを得ることができる。それが日本では極めて限られた範囲でしか流通していない。
 
←前のページへ
1│2│345
このページのトップへ
copyright(C) Kazuo Noda.  All rights reserved.